ningen1000mgの日記

思考という心臓

疲れを知らない

私は運転が好きだ。

もちろん愛車を文字通り愛しているのはあるが、愛車以外の車に乗るのも好きだ。

しかし、たくさん運転をした次の日、希死念慮が強まるなどの精神的問題が発生する。

運転している時はとっても楽しいし幸せなのに、そのあとが地獄だ。

 

私は仕事でもストレスを感じることはほとんど無い。自分に合った仕事ができているし難易度も高くない。自分の仕事は好きだし楽しいと思う。なのに、時々すごく疲れていることがある。辛い気持ちになることがある。

憂鬱さの原因が分からず対処ができないまま、いつの間にか元気を取り戻して、振り返る事はなかった。

 

どうやら私は、運転の疲れと仕事の疲れのどちらも「楽しさ」が付随するために「疲れる理由」であるという認知がいまいち薄いようだ。

 

最近よく思うのは、運転はめちゃくちゃ脳みそを使うものだ。

もちろん無心で脳が全自動で安全運転をしているという感覚の時もあるのだが、車通りが激しかったり高速でスピードを出す必要があったりする時、明らかに脳内CPUを使っている。

 

信号のない横断歩道があれば人がどこかから来て渡るかもしれない。右左折の際、後ろから自転車が来ているか?対向直進車のスピードはどれくらいか?曲がった先の道路はどんな形状か?前後の車はどんな動きをしているのか。私が邪魔になっていないか?突然急ブレーキを踏むかもしれない。先の先にいる車の動きも見る必要がある。店から出てくる車も割り込みさせれば良いわけではない。自分の後続の車がいなければ自分が行ってしまった方がその車は道路に出やすい。

常にまわりの環境を認識して考えて運転していることを自覚すると、こりゃ適当にはできないな、と思う。勿論その自覚がない人も多く、交通事故は絶えないが。

 

「簡単だから」「好きだから」「楽しいから」する行動だとしても、脳や身体にはなんらかの影響があり、エネルギーを消費している。

私の中でなんとなく「疲れる=嫌なこと」というイメージが先行して、楽しいことで疲れるという認識があまりできていない。また、私は休日も外に出ることがほとんどで、「何もしない」ことがかなり苦手だ。気がつかないうちに「回復できていない疲労」が溜まっている気がしてきた。

「何もしない」以外で精神的身体的疲労を解除する方法について考える必要はあるが、まずは、楽しいことでも疲れは溜まっているという自覚と、それをきちんと拾って癒してあげるということを意識していく必要がありそうだ。

 

精神的にはどうあれ、身体は既に10代のそれではないのだ。この先、ちゃんと疲れが取れにくくなっていく。

仕事はノンストレスでも、運転が楽しくても、脳を使って活動している。活動したら疲れるのは当たり前。そういう「許すための認知」こそ今の自分に必要な能力かもしれない。

自分を許すことで、他人を許せる。他人に優しくできるからだ。私には欠けている能力である気がする。